ワシが死んだらどうなるのか?

こんな考えに至るのは自然なことか。ワシは死に一番近しい存在なのだから。我が娘達は死の本質を研究し、我が息子は死の生息を実行する。そして、ワシの最大の目標は死の類義語になること。死ぬことであり、死の中で生きること。さすれば宇宙が無になっても、その無の一部になることができる。希望のない幸福の宇宙よりも、幸福な終末のある厳しい宇宙の方がずっとましだ。

ワシは何度も死んだが、その死はいつも一時的なものだ。

ワシのエコーが倒され、ワシも物質世界で倒されれば、ワシはドレッドノートという我が玉座に追いやられる。ワシの審判と玉座が倒されれば、敵が我が玉座まで来ることがあれば、玉座でワシが倒されれば、その時ワシは本当の意味で死ぬだろう。ワシのやってきたこともそれで終わるだろう。

ワシはこの契約に縛られている。特に破滅の石版の研究に。深遠の力の使用に。あの力を呼び出す時、ワシは自分自身を、自分の魂を賭けている。我が神にこの世で最強は我であると、それを証明すると豪語しているのだからな。

最近になって、クロタや娘達、そして審判にどれだけ頼っているのか気付いた。ワシ1人では消費する力の量が手に入れる力の量を超えてしまう。ワシの貢ぎ物だけでは虫の空腹を満たし切れない。だが、それも在り方として成り立っているのだろう。クロタ、娘達、審判を失うということは、あやつらの力が足りないということ。ワシは父親として、そして神として失格だということ。ワシはあやつらを試し、共に戦って力を付けさせる必要がある。それがワシの誓いだ。

ワシは永遠に生き続ける。全てを理解する。道は1つしかない。己が作る道しか。だが、己が作るなら複数存在させることもできる。

独房の格子を壊して新しい形状を作り、その道から形状を作る。己の独房の格子を探してそこから飛び出し、形状を見つけ、その道から形状を作り、光を喰らい、道を食らう。

ワシが倒れることがあれば、虫の餌として放置するがいい。